二葉亭四迷「浮雲」を読む(8)

 本を読み始めるのはひどく苦痛なのだから、それでも読み始めようとした時には、読み終えてなにかが変わってしまった自分を期待してしまっている。読んでいる最中どんな新しい視点に出会えるのか。読み終えた後どんな感想を持つのか。期待に胸を膨らませて読み始める。その後、頁を閉じた私はどうなっているのか。特に変わることはない。何も思うところがなかったわけでも、ひどくつまらなかったわけでもない。しかし、価値観を変えられるような、脳天に雷が落ちるような読書経験なんて得られることもない。そんな自分に、がっかりする。

 思うに、本を手に取ってから一番楽しいのは、頁を開く前なのでないか。本を手に取り、表紙を見て、帯を見て、カバーに書いてあるならあらすじを読んで、そうしてこの中にはどんな世界が構築されているのか想像をはたらかせる。おそらく、つまらない読書体験に終わるのは、このような想像力に原因がある。

 この本の中には、私が期待したようなことが書かれているのか、点検をするかのように読み進める。そんな間違い探しをするような、いや、減点方式で採点するような、そんな読書をしていてなにがいいのか。だからといって、何も期待せずに、何も考えを持たずに読み始めるのも不可能だ。そもそも、何も考えようとしない人が文章を読もうとしない。「浮雲」を読むにあたっては、「現文一致の嚆矢」という情報からは逃れられない。おそらく、言文一致体はどのようにして始められたのか、明治の文士達の挑戦について調べるための資料として読もうとするのは間違いではないだろう。しかし、それで終わるなら国語便覧を読んでいる時と何が違うのか。

 学生時代はよく便覧を持ち歩いていた。家の中で読むこともあったし、本屋や図書館に持って行って、次にどんな作品を読もうか考えるのが好きだった。今振り返ると、それである程度文学史を勉強できたのはよかったが、便覧を読んでいる時間が印象に残っていて、実際に読んだ作品の印象がそれよりも薄いのはどうかと思う。読まなくてもよかったとは思わないが、なんだか便覧に、便覧の作成者に考えを操作されたようで不愉快だ。だが、これがなければそもそも本を読み始めることもなかったのだろうし、必要な時間だったのだろう。

 

 今日は「グレイモヤβ」を観た。今日の昼過ぎ、主催者からグレイモヤ通信というメルマガが送られた。このライブを観た人だけが読めるものということなので、もちろん内容は書かないが、これからライブを観ようというひとをよりワクワクさせてくれるものだった。劇場に入る前から前説をしてくれるようなもので、芸人さんのネタにより入り込みやすくしてくれる。こういうところがグレイモヤの、ザクセスの好きなところだなと思い、こんな風にライブを観る前から期待を持たせてくれるのが良いと感じるなら、本を読み始めるまえにあれこれ期待してしまうのも悪くないじゃないかと考えを改めようと思った。

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 しかし、ここで問題なのはいま私が「浮雲」について何も期待を持っていない。読んでみたいと思っていない。冒頭に書いたように、読み始めるのがひどく苦痛だ。