二葉亭四迷「浮雲」を読む(9)

「小説を書くのは、小説を読んだからだ」なんて箴言を聞いてしまったからなのか、なにかを読んだからには自分も何かを発しなければいけないと追い込まれる。いや、なにも聞いたことなくても、一つ小説を読んだら自分も、という気になっていたかもしれない。そこに後藤明生の出典不明な理論(「小説ーいかに読み、いかに書くか」か「小説は何処から来たか」のどちらかだったと思う。図書館で読んだだけで手元にはどちらもないので、いまは調べようがない)を聞いたから余計に自意識が加速したとも思える。とにかく、ただ楽しんで鑑賞するなんてことできないのだ。まだ何も世に生み出していないのに、なにか私も生み出さなければとどこかで思いながら本を手にとる。「浮雲」を読んで今更私に何ができるというのか。

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 今書いた文を読み返すと、厄介で青臭いなと思うが、でも何か考えながら創作物に当たるのは当たり前だろうとも思えてきた。たとえば、お笑いライブをみて「久しぶりに何も考えずに笑えた」とか、「勉強のために」お笑いライブをみるとか、どうもしっくりこない。もちろん、企画書をたくさん提出したり、制作に関わる人と素人とでは考える内容も、それで生まれるストレスも全く違うとは思う。しかし、子供の時まで振り返って、自分がどうやってお笑い番組を見てきたか、どうやって本を読んできたか思い返してみたら、憧れの念を抱きながら、なんでこれが面白いんだろうかとどこかで考えていたと思う。さすがに、幼稚園生の時に星のカービィのアニメを見ながらあれこれ考えてたとは思わないけれども。

 それでは、このようにしてあれこれ考えたことをどうアウトプットするのか。全くしていない。する気にもならない。そんなことする人はアホだと思う。机に向かうのがめんどくさい。レポートもほとんどスマホで書いて提出していた。

 昨年末の「村上RADIO」で村上春樹が「作家は日々机に向かって正しい言葉を探し求めるのが仕事」と話していた。私は小説家志望というわけではないが、「日々机に向かって」闘う人を想像すると、まずその姿勢すら正せない私の意志の弱さ、情けなさに呆れてしまう。自分一人で創作する要素の強い小説ならまだいいが、だれかと協力しながら作ることになる台本制作なんていつまで経ってもできない気がする。こんな私にできるのかな?と弱気になるのではなく、どう考えても無理だよなと自分で自分に最初から選択肢を与えないような気でいる。流石にこの心構えはただしたい。せっかく昨日誕生日をむかえたのだし、1年は机に迎えるようにする、椅子に座って作業するを目標にしよう。

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 しかし、本当に机にむかうのが言葉を生み出す唯一の方法か。机に向かうを目標にしてしまって、それこそが正しい創作方法だという意識が強くなり過ぎてしまったら、どうしてもベッドから起き上がれない人を弱い人間だと見下してしまうマッチョな男になってしまうだろう。ベッドから起き上がらない、毛布にくるまったままの人が発する言葉が何かを変えるはずだ。そもそも、本なんて寝っ転がりながら読めるからいいのだ。ついに文庫化された浅田彰の「構造と力」を読むと「ヤジウマ的に本と付き合えばよい。『資本論』なんて、どう見ても寝転がって読むようにできているのだ」(浅田彰『構造と力 記号論を超えて』中公文庫(2023.12))と書かれていた。机に向かうのが正しい言葉を生むのに最適な方法にはならないでほしい。

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 いや、寝っ転がりながら読むことを肯定してばかりいると、わかりやすいものにしか興味がいかなくなり、反知性的な志向が強くなる気がする。寝転がってばかりもいられない。喫茶店にでも行って、そろそろ「浮雲」を読み始めよう。