二葉亭四迷「浮雲」を読む(9)

「小説を書くのは、小説を読んだからだ」なんて箴言を聞いてしまったからなのか、なにかを読んだからには自分も何かを発しなければいけないと追い込まれる。いや、なにも聞いたことなくても、一つ小説を読んだら自分も、という気になっていたかもしれない。そこに後藤明生の出典不明な理論(「小説ーいかに読み、いかに書くか」か「小説は何処から来たか」のどちらかだったと思う。図書館で読んだだけで手元にはどちらもないので、いまは調べようがない)を聞いたから余計に自意識が加速したとも思える。とにかく、ただ楽しんで鑑賞するなんてことできないのだ。まだ何も世に生み出していないのに、なにか私も生み出さなければとどこかで思いながら本を手にとる。「浮雲」を読んで今更私に何ができるというのか。

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 今書いた文を読み返すと、厄介で青臭いなと思うが、でも何か考えながら創作物に当たるのは当たり前だろうとも思えてきた。たとえば、お笑いライブをみて「久しぶりに何も考えずに笑えた」とか、「勉強のために」お笑いライブをみるとか、どうもしっくりこない。もちろん、企画書をたくさん提出したり、制作に関わる人と素人とでは考える内容も、それで生まれるストレスも全く違うとは思う。しかし、子供の時まで振り返って、自分がどうやってお笑い番組を見てきたか、どうやって本を読んできたか思い返してみたら、憧れの念を抱きながら、なんでこれが面白いんだろうかとどこかで考えていたと思う。さすがに、幼稚園生の時に星のカービィのアニメを見ながらあれこれ考えてたとは思わないけれども。

 それでは、このようにしてあれこれ考えたことをどうアウトプットするのか。全くしていない。する気にもならない。そんなことする人はアホだと思う。机に向かうのがめんどくさい。レポートもほとんどスマホで書いて提出していた。

 昨年末の「村上RADIO」で村上春樹が「作家は日々机に向かって正しい言葉を探し求めるのが仕事」と話していた。私は小説家志望というわけではないが、「日々机に向かって」闘う人を想像すると、まずその姿勢すら正せない私の意志の弱さ、情けなさに呆れてしまう。自分一人で創作する要素の強い小説ならまだいいが、だれかと協力しながら作ることになる台本制作なんていつまで経ってもできない気がする。こんな私にできるのかな?と弱気になるのではなく、どう考えても無理だよなと自分で自分に最初から選択肢を与えないような気でいる。流石にこの心構えはただしたい。せっかく昨日誕生日をむかえたのだし、1年は机に迎えるようにする、椅子に座って作業するを目標にしよう。

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 しかし、本当に机にむかうのが言葉を生み出す唯一の方法か。机に向かうを目標にしてしまって、それこそが正しい創作方法だという意識が強くなり過ぎてしまったら、どうしてもベッドから起き上がれない人を弱い人間だと見下してしまうマッチョな男になってしまうだろう。ベッドから起き上がらない、毛布にくるまったままの人が発する言葉が何かを変えるはずだ。そもそも、本なんて寝っ転がりながら読めるからいいのだ。ついに文庫化された浅田彰の「構造と力」を読むと「ヤジウマ的に本と付き合えばよい。『資本論』なんて、どう見ても寝転がって読むようにできているのだ」(浅田彰『構造と力 記号論を超えて』中公文庫(2023.12))と書かれていた。机に向かうのが正しい言葉を生むのに最適な方法にはならないでほしい。

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 いや、寝っ転がりながら読むことを肯定してばかりいると、わかりやすいものにしか興味がいかなくなり、反知性的な志向が強くなる気がする。寝転がってばかりもいられない。喫茶店にでも行って、そろそろ「浮雲」を読み始めよう。

二葉亭四迷「浮雲」を読む(8)

 本を読み始めるのはひどく苦痛なのだから、それでも読み始めようとした時には、読み終えてなにかが変わってしまった自分を期待してしまっている。読んでいる最中どんな新しい視点に出会えるのか。読み終えた後どんな感想を持つのか。期待に胸を膨らませて読み始める。その後、頁を閉じた私はどうなっているのか。特に変わることはない。何も思うところがなかったわけでも、ひどくつまらなかったわけでもない。しかし、価値観を変えられるような、脳天に雷が落ちるような読書経験なんて得られることもない。そんな自分に、がっかりする。

 思うに、本を手に取ってから一番楽しいのは、頁を開く前なのでないか。本を手に取り、表紙を見て、帯を見て、カバーに書いてあるならあらすじを読んで、そうしてこの中にはどんな世界が構築されているのか想像をはたらかせる。おそらく、つまらない読書体験に終わるのは、このような想像力に原因がある。

 この本の中には、私が期待したようなことが書かれているのか、点検をするかのように読み進める。そんな間違い探しをするような、いや、減点方式で採点するような、そんな読書をしていてなにがいいのか。だからといって、何も期待せずに、何も考えを持たずに読み始めるのも不可能だ。そもそも、何も考えようとしない人が文章を読もうとしない。「浮雲」を読むにあたっては、「現文一致の嚆矢」という情報からは逃れられない。おそらく、言文一致体はどのようにして始められたのか、明治の文士達の挑戦について調べるための資料として読もうとするのは間違いではないだろう。しかし、それで終わるなら国語便覧を読んでいる時と何が違うのか。

 学生時代はよく便覧を持ち歩いていた。家の中で読むこともあったし、本屋や図書館に持って行って、次にどんな作品を読もうか考えるのが好きだった。今振り返ると、それである程度文学史を勉強できたのはよかったが、便覧を読んでいる時間が印象に残っていて、実際に読んだ作品の印象がそれよりも薄いのはどうかと思う。読まなくてもよかったとは思わないが、なんだか便覧に、便覧の作成者に考えを操作されたようで不愉快だ。だが、これがなければそもそも本を読み始めることもなかったのだろうし、必要な時間だったのだろう。

 

 今日は「グレイモヤβ」を観た。今日の昼過ぎ、主催者からグレイモヤ通信というメルマガが送られた。このライブを観た人だけが読めるものということなので、もちろん内容は書かないが、これからライブを観ようというひとをよりワクワクさせてくれるものだった。劇場に入る前から前説をしてくれるようなもので、芸人さんのネタにより入り込みやすくしてくれる。こういうところがグレイモヤの、ザクセスの好きなところだなと思い、こんな風にライブを観る前から期待を持たせてくれるのが良いと感じるなら、本を読み始めるまえにあれこれ期待してしまうのも悪くないじゃないかと考えを改めようと思った。

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 しかし、ここで問題なのはいま私が「浮雲」について何も期待を持っていない。読んでみたいと思っていない。冒頭に書いたように、読み始めるのがひどく苦痛だ。

二葉亭四迷「浮雲」を読む(7)

 無限大ホールで20:30開演のお笑いライブ「濁」に行く前に買い物を済ませるため、16時過ぎに家を出る。会場は渋谷にあるのだが、ルミネでやるものだと勘違いしていたため新宿で降りてしまう。そのため新宿で目的の買い物を済ませた。初めて大喜利ライブにエントリーしたためホワイトボードと水性ペンを買ったのだが、俺スナさんがホワイトボードの文字を消すものがないのはダメだと言っていたのを思い出してイレーザーをあとで買い直す。家に帰ってから俺スナさんはペンの文字が太くないとダメと言っていたのも思い出す。朝会場に着く前に太めの水性ペンを買えないか探してみよう。

 

 早めに買い物が済んだので、ドトールに入って「浮雲」を読もうとする。ここで注文のミスをしてしまう。いつもはコーヒーくらいしか頼まないのだが、メニュー表の写真に惹かれてつい期間限定発売のきなこ豆乳オレ〜豆ホイップ〜のSサイズを注文してしまう。これはとても甘くておいしかったので、注文した品自体には問題ない。しかし、本を読む際のお供には適さない。

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 まずSサイズを頼んでしまったのですぐ飲み終わってしまう。加えてきなこ豆乳オレなんて甘いものはついつい飲むのに集中してしまうので、飲み終えるのに時間がかからない。本当ならコーヒーをちびちび飲みながら本を読み進めるのがいいだろう。しかし、本を読み始める前に全て飲み終えてしまった。注文の品を全て飲み終えているのに居座り続けるのもなんだか気が引ける。だからといって、居座り続ける言い訳づくりのようにLサイズのコーヒーをゆっくりゆっくり飲んでいたのも、それはそれで卑しい根性だろうが。

 このように、注文を一つ間違えただけで気軽に本は読めなくなる。そもそも喫茶店は本を読むのに、それほど適した場所ではないのかもしれない。では、本を読むのに適している場所とはどこなのだろうか。もちろん自分の部屋がいいというのがほとんどだろう。だが、本を読むという没入感ある行為を一人の部屋でしていると、気が滅入ってしまうことがある。「僕の部屋は僕を守るけど 僕をひとりぼっちにもするよね?」の「僕をひとりぼっちにもする」感覚が強すぎる時がある。そのため別の場所で読むのがいいかと考えるのだが、先に述べたように喫茶店はそぐわないことがおおい。

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 そうすると次に考えるのは図書館だが、図書館で借りた本をその場で読むのならいいが、家から持ってきた本をわざわざ図書館で読むというのはおかしい気がする。それに、勉強をしにきた学生たちが本を読むために席をとっている自分に白い目をむけてきたらと思うと嫌になる。本来図書館では本を読むというのが真っ当な行為なのだが、どうしても図書館で勉強する学生が多いので仕方がない。意外と多いのが電車で読むというのだが、移動のために使う電車を本を読むのに使うというのが、本来の目的で利用している人の邪魔をしているようで気が進まない。しかも、該当するものを失念してしまったが、最近本を読むために電車に長時間滞在していた人が交通費を請求されたというポストを読んだ。鉄道会社側の意見は至極真っ当だと思うが、ぼんやりとした記憶の中でだれか文学部の大学教授が文献を読むために電車を利用するということをツイートしていた気がする。あれはなかなかに危ない発言だったのではないか。

 読む場所が定まらないので「浮雲」は読まずになんとなくポケモンソルジャーの動画を見ていたら、開場時間30分前になる。このときはまだ会場を間違えていたのに気づいていなかったので、一度ルミネに向かうとすゑひろがりずの単独ライブの開場準備が進められていて、ここで間違いにようやく気づく。新宿から渋谷までは一駅なので難なく開演には間に合った。「濁」は初めて劇場で観覧したが、全組面白く、ズンズンポイポイを吉本の劇場で観られたことに少し感激した。

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二葉亭四迷「浮雲」を読む(6)

浮雲』を2冊持ち運ぶようになってからリュックが重たい。通勤の際はワークマンで買った大容量リュックに、財布、弁当、500ミリペットボトル、ノート、折り畳み傘、YCAの授業がある日は室内履きに加えて、空いた時間に読む本を入れている。それだけでもだいぶ重たいのに、そこへ『浮雲』を入れると、リュックを背負った時の負荷がだいぶ重たくなる。少しでも身体への負担を減らすためには荷物を減らさないといけないので、リュックに入れる本を『浮雲』だけにしようかと思う。

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 しかし、そうすると空いた時間に読む本が『浮雲』だけになってしまう。どの本を読みたいかはその時の気分によって変わる。まだ読み始めていないのに、特に読みたい気分でもないのに「浮雲」を読み始めてしまうのはよくない。そうと考えたら、リュックには『浮雲』に加えてあと1冊だけ本を入れるようにしようと思うが、どれを入れるかも非常に悩ましい。

 先日ブルトンの「ナジャ」を読み終えたばかりので、岩波文庫の『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』がいいか。ひさしぶりに『自然主義文学盛衰史』を紐解いたので、徳田秋声の『黴』もいい。それとも野間文芸新人賞が決まる前に「あなたの燃える左手で」を読まないと思うので「文藝 2023年夏季号」もいいかも。いや、サイズの大きい書籍は嵩張るか。こう考えていると荷物の準備が終わらない。

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 大体、本を持って行ったところで読まないで帰ることなんてよくあることだ。そう考えて本を持ち運ぶのはやめにしようとするのだが、出発の直前になって気持ち悪くなり、いつも荷物を増やしてしまう。それで結局1頁も読まないで帰宅する。無駄なことをしているようだが、できるだけモヤモヤとした気分を持たないようしたいのでこれでいいのかもしれない。

 それに、本をできるだけ身近なところにあるようにするのは、それだけでも自分にとって重要なことなのだ。「積読」なんて言葉が自虐的に使われるのをよく読むが、経済的にひどく追い込まれているのでなければ、本を買って近くに置いておくのはそれだけで一つの読書体験にもなると思う。読書はその1冊1冊だけで終わるものではなく、様々な文章と関連づけて読み続けていくことであり、そのようにして読んだ人だけの経験をつくることなのではないか。そのために、自分だけの図書館を作るようにして本を身近に置いておくのは間違いでない。「積読」も読まない本をリュックに入れてしまうのも間違ってないはずだ。

 結局『浮雲』と一緒に『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』を持って行った。そして、電車の中や、中華食堂一番館で注文した唐揚げ定食が届くまでの間に、「シュルレアリスム宣言」を読んだ。まだ読み始めたばかりだが、surrealの訳語である「超現実」はまだ一度しか使われていない。それよりも「ナジャ」にも表れた「不可思議」というのがブルトンにとってのキーワードなのかもしれない。

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 食事を終えた後は新宿バティオスで破壊ありがとう単独ライブを観た。長尺コント6本のライブだったが、どれも引き込まれるものばかりで、特に2本目に披露された「赤の他人」というコントが好みだった。

 

二葉亭四迷「浮雲」を読む(5)

浮雲』の文庫本を読もうと外に持ち歩くと、鞄の中で本が動いて擦れてしまい、カバーが汚れる。そのためブックカバーを用意しようと思う。一応ブックカバーは一つ持っているのだが、『浮雲』は岩波文庫版と新潮文庫版と2つあるのでもう一つ欲しい。同じものをもう一つ買えばいいと思ったが、同じブックカバーの本が2冊あると一目でどれがどれだか分からなくて不便だし、たいしたこだわりがないのに愛着があると周りから勘違いされるのも癪に触る。

 そういうわけで別のブックカバーを買おうと池袋のジュンク堂を散策したのだが、なかなかいいものが見つからない。そもそもブックカバーが想像していたよりも値段が高い。いいかもしれないと手に取ると2,000円、3,000円とする。書籍を買うのに値段を理由に躊躇ってしまうことが多いのに、どうして気軽にブックカバーに3,000円を使えようか。値段の問題もあるが、それくらい値のはるブックカバーを使っていると、読書をするのが好きな人になってしまう気がする。本の中にはそれぞれ固有の時間が流れているはずなのに、ブックカバーをつけて優雅に読書を楽しんでいたら、本の中の時間が私の最高なひとときに侵食されてしまう。

 そうすると、デザインではなく本を汚さない、本が読みやすくなるという機能性を重視したブックカバーを探すことになる。ブックカバーの並んだ棚を見てみると目をひくものがあった。一見紙のブックカバーに思えるが、ポリエチレンファイバー製で丈夫だというもの。しかも布製のものより本とフィットして動かしやすく、さらにフリーサイズであるため様々なサイズの本に合わせられるというのだ。これはいいと思って買おうとしたのだが、なぜかデザインが百均のトートバッグのような妙に主張の強いものばかりで買う気が失せてしまう。加えて、機能性の良いものを使っているというのを周りから見られた時、あの人は機能性でブックカバーを選んでいるんだなと私の行動基準を悟られるのが気色悪いので、どうしても買えなかった。無地で革製のブックカバーを使っているのなら、どうしてこのブックカバーを使っているかなど考える余地はないだろうが、お世辞にも素敵とは言えないデザインでピッタリ本にフィットしているブックカバーを見られたら、どういう思いで私がそのブックカバーをレジに運んだのか、私の過去を推察される。それは恥ずかしく不愉快だ。

ファイバーフリーサイズブックカバー 夜空covers.holiday

 もうブックカバーを買うことができないとなると、本を買った時についてくる紙のカバーを使うしかないかと思う。だが、最近は本屋で本を買うときはレジにいる時間を極力減らしたくてカバーはいらないと言ってしまうし、セルフレジで本を買ったときは自分でカバーをつけるのはめんどくさいので持ち帰らない。そのためわざわざ『浮雲』につける紙のブックカバーは手元にはないし、そのために新しく本を買うのも馬鹿らしい。しかも、どの書店の紙のブックカバーを使うかも悩ましいところである。たとえばジュンク堂のカバーを再利用して使っているとなったら、ジュンク堂のカバーをわざわざ再利用して使いまわすなんてそれだけジュンク堂を贔屓にしているのかしらと思われないかときになってしまう。少なくともそんなことをしている私を私が見たらそう思う。

 また、紙のブックカバーを折っていると、本屋でアルバイトしたことを思い出す。大学1年生の春に1ヶ月だけ、今はもうなくなってしまった渋谷の丸善ジュンク堂書店でアルバイトしていた時のことである。そこは初めてのアルバイト先で、まず教えてもらった仕事の一つに、レジで本にブックカバーをかけるというものがあった。お客さんの前で早く丁寧にカバーをかけないといけないというのは、初めてバイトする私には耐えられないほど緊張感があったが、慣れてくると早くできるようになってきて少しずつ楽しくなっていた。

 そんなバイトをどうして1ヶ月しか続けなかったのかというと、1ヶ月で私がバックれてしまったからである。私はとにかく他人から怒られるのが嫌で、学生時代は今よりもその傾向が強かった。バイトを初めて1ヶ月ほど経った時、早番で出勤しようとしたら道中忘れ物に気づいて家に取りに行っている間に絶対に出勤時間に間に合わなくなってしまった。今ではアルバイトに遅刻する人なんてよくあることだし、きちんと先輩や社員に説明して謝れば良いだけのことだったとわかるが、とにかく遅刻して怒られたくないという思いばかりが強くなった当時の私は、そのまま渋谷のジュンク堂には近づかなくなり、フェードアウトしていった。どう振り返っても当時の私の行動は社会不適合者のそれである。そんな自分の弱さを再認識したくないので、あまり紙のブックカバーを触りたくない。

 そんなわけでいいブックカバーは見つからない。持ち運ぶときは最低限、濡れたりしないようにポーチに入れておこうとは思う。

二葉亭四迷「浮雲」を読む(4)


 新潮文庫版「浮雲」の装丁を見返すと、読者がうまく小説の〈世界〉に入り込みやすいようデザインされていると感じる。新潮文庫から出版されている、林芙美子の「浮雲」と見比べると受ける印象が全く違う。林作の「浮雲」は未読のため踏み込んで語れないが、二葉亭作の「浮雲」の装丁は男が部屋から雲の浮かぶ空を見上げていて、「浮雲」という題名からも、作中人物のどこか先行き不安な将来でも語られるのだろうと予想できるようになっている。初めて「浮雲」を読む読者にもとっかかりやすいよう、サービス精神にあふれた装丁と言える。

 もう私は「浮雲」の初めての読者ではないので初めて読む時の感覚に戻れないが、サービス精神に溢れた「浮雲」の装丁は、かえって初めて読むための人にとって読書の障害になってしまわないか。真銅正宏『小説の方法-ポストモダン文学講義-』(2007年4月、萌書房)は「なぜ我々は小説を書くのか。それは、別の世界を構築し、別の世界に生きるためである」(173頁)と述べている。小説の〈世界〉に入り込みやすいようにしすぎれば、せっかく書物の中に構築された「別の世界」と読者側の現実世界との境界が曖昧になってしまう。表紙を見ただけで「だいたいこんな感じのことが書かれるのだろう」と予想されてしまうのは、ひどくつまらない。読む前から与えられる情報が多いと、読み進める時に深く小説の「世界」に入り込むことができず、小説を読む時に過ごす時間と、電車の中でなんとなくネットのニュース記事を読んでいる時の時間との違いがなくなってしまう気がする。

 だからといって、本に装丁が施されるのが当たり前になっているなかでカバーを隠してしまうのも違う。清水潔『殺人犯はそこにいる-隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件-』の新潮文庫版(2016年6月)が書店員によってカバーを隠され、「文庫X」として販売されたことがあった。「どうしても読んでほしい」という書店員の熱い思いはひしひしと伝わるが、あえて装丁を隠すという販売者の作為の方が強すぎる気がして私は読む気が起きなかった。なんだか他人に「読まされている」ような気分になって読むのが躊躇われる。ネット上に匿名の文章は溢れているし、わざわざ書籍化して出版するのに装丁を隠すのもなにか違うだろという気もする。

 小説の「世界」に入り込むためにはそのきっかけとなるものが必要で、その為に装丁は重要な役割を持つだろうが、理想はいつの間にか「世界」に入り込んでしまったという感覚だ。気づいたら入り込んでしまってどこかに連れてかれてしまったという気分を味わいたいので、サービス精神の強すぎる装丁もあえて装丁を隠すという作為も、私にとっては邪魔である。

二葉亭四迷「浮雲」を読む(3)

浮雲」を読んだ感想を事前にネットで調べてみる。作品途中で文体が切り替わるのを面白いと書く人がいれば、読み終えるまで1ヶ月かかった、途中で読むのを止めてしまったという人もある。どれも私が「浮雲」を読んだ後に思い浮かべる可能性のある感想ばかりだ。どうせこのくらいの感想を持つと分かっているのならわざわざ読む必要がないのではないか。

 荒川洋治が『文芸時評という感想』(四月社、2005年4月)を出しているのには勇気付けられることもある。「感想」なんて最近ではバカにされがちな言葉も、読者の自由な表現として扱っている。荒川が「本当の読書を続けていくためには、感想を積み重ねていくことが必要だと思う」と言うように、一時の感覚や他の評価に縛られずに自分の「感想」を持つのはかけがえのない経験だ。

 しかし、「本当の読書」に必要な自由な「感想」なんて、荒川のような読み巧者でなければ持てないとも思う。おそらく私のような読者はまともに本なんて読んでいない。通勤時間にYouTubeを見たり寝たりするのがなんとなく気が引けて、時間を有効活用しなければという強迫観念に駆られて読む。読む前に得た情報が正しいのかどうか確認するかのように読む。文学科の課題のためにしょうがなく要点だけおさえられるよう読む。おそらく作者が絶え間ない努力の末に書き上げた文章を、平気で飛ばし飛ばし読むのだ。そんな風に読んで自由な感想が得られるか。何も考えていないと思われたらバカだと思われるから、ネットに転がっている評価をサンプリングして、さも自分の感想かのように語るだけだ。こんな風に「感想」を持つというのは難しいことだから、『文芸時評という感想』は評価されたのだろう。

 それにしても、私のようにまともに本を読めない人はたくさんいるはずだ。「浮雲」の感想を書き込んだ人の中にも必ずいる。どうしてみんな簡単になにかを書いてしまうのだ。そんなに書くのが好きなのか。そんなに言語化するのが素晴らしいことなのか。出典元を記録したメモを紛失してしまったのだが、正宗白鳥自然主義文学盛衰史』(講談社学芸文庫、2002年11月)の中で引用されている、徳田秋声の「自分はひどい無性ものである」「自分はみずからの仕事を後から振返ることが出来ないほど、自分の仕事に自信がもてない。従って自分は作品を読みかえすのが、いかにも厭なのである」という文章に励まされた。日本文学史に残るような小説家にもこのような自己嫌悪があったのだ。書くことなんて好きではない。映画『響』の予告(本編は全く観たことがない)で主人公の響が「読むのも書くのも好き」と言っているのだが、きっとその域に達することは今後もない。だからこそ、簡単に思ったことを発信できる人の気持ちがよくわからない。

 ところで、YCAの学園祭が終了した。終わった後は反省しなければいけないが、気が進まない。「みずからの仕事を後から振返ることが出来ない」のは、どうしても引け目を感じてしまう。そもそも、反省するような活動をしていたとも思えない。最低限の活動はしていたと思うが、それ以上に周りの同期は尊敬に値するほど動いてくれていた。深夜まで台本を作成する人、動画や音源を作成する人、劇場の装飾をする人、リーダーシップをとって全員に連絡を回してくれる人、それに対して疑問に思ったことはすぐ質問して改善できるようにした人、講師や事務局の方とこまめに連絡をとってくれた人、tシャツの作成に参加した人、終電間際まで作業する人、公演当日は進行や音響に一日入っていた人、周りに気を配りながら運営に携わっていた人、その他きっと私の目に届かないところで動いていてくれた人。それに比べたらそもそも私に振り返るものがない気もする。自分の今までの生き方を言い訳にあまり参加できていなかったが、私の恥ずかしさや自意識は私固有のものであるわけがないので、恥ずかしいと思いながらも積極的に動いていた人もいるはずなのだ。もっとこうするべきだったという反省点は山ほどあるが、その質は周りと比べて低いと思う。

 それでも私にとって貴重な経験を得られたし、とても楽しかった。もちろん、特に感謝するのは講師の方や会場にお越しくださったお客様であるが、それと同じくらい同期には感謝しているし尊敬しているが、なかなかそんな気持は伝わらないだろうし、一人でももっと動いてほしかったと思う人がいたら何を呑気に感謝の気持を述べているんだとなりそうなので伝わらなくてもいいと思う。そんなものよりも、Xでパブサした時に見つかるお客様の感想のほうが大事だ。1人でも公演が良かったと言ってくれる人がいるなら、ここまでの頑張りが報われるので、そう考えると、だいぶ他の人よりかは遠回りしたが感想を述べることの重要さが身にしみた気がする。

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