二葉亭四迷「浮雲」を読む(4)


 新潮文庫版「浮雲」の装丁を見返すと、読者がうまく小説の〈世界〉に入り込みやすいようデザインされていると感じる。新潮文庫から出版されている、林芙美子の「浮雲」と見比べると受ける印象が全く違う。林作の「浮雲」は未読のため踏み込んで語れないが、二葉亭作の「浮雲」の装丁は男が部屋から雲の浮かぶ空を見上げていて、「浮雲」という題名からも、作中人物のどこか先行き不安な将来でも語られるのだろうと予想できるようになっている。初めて「浮雲」を読む読者にもとっかかりやすいよう、サービス精神にあふれた装丁と言える。

 もう私は「浮雲」の初めての読者ではないので初めて読む時の感覚に戻れないが、サービス精神に溢れた「浮雲」の装丁は、かえって初めて読むための人にとって読書の障害になってしまわないか。真銅正宏『小説の方法-ポストモダン文学講義-』(2007年4月、萌書房)は「なぜ我々は小説を書くのか。それは、別の世界を構築し、別の世界に生きるためである」(173頁)と述べている。小説の〈世界〉に入り込みやすいようにしすぎれば、せっかく書物の中に構築された「別の世界」と読者側の現実世界との境界が曖昧になってしまう。表紙を見ただけで「だいたいこんな感じのことが書かれるのだろう」と予想されてしまうのは、ひどくつまらない。読む前から与えられる情報が多いと、読み進める時に深く小説の「世界」に入り込むことができず、小説を読む時に過ごす時間と、電車の中でなんとなくネットのニュース記事を読んでいる時の時間との違いがなくなってしまう気がする。

 だからといって、本に装丁が施されるのが当たり前になっているなかでカバーを隠してしまうのも違う。清水潔『殺人犯はそこにいる-隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件-』の新潮文庫版(2016年6月)が書店員によってカバーを隠され、「文庫X」として販売されたことがあった。「どうしても読んでほしい」という書店員の熱い思いはひしひしと伝わるが、あえて装丁を隠すという販売者の作為の方が強すぎる気がして私は読む気が起きなかった。なんだか他人に「読まされている」ような気分になって読むのが躊躇われる。ネット上に匿名の文章は溢れているし、わざわざ書籍化して出版するのに装丁を隠すのもなにか違うだろという気もする。

 小説の「世界」に入り込むためにはそのきっかけとなるものが必要で、その為に装丁は重要な役割を持つだろうが、理想はいつの間にか「世界」に入り込んでしまったという感覚だ。気づいたら入り込んでしまってどこかに連れてかれてしまったという気分を味わいたいので、サービス精神の強すぎる装丁もあえて装丁を隠すという作為も、私にとっては邪魔である。