二葉亭四迷「浮雲」を読む(2)

 岩波文庫のあらすじ「真面目で内気な文三と、教育ある美しいお勢は周囲も認める仲。しかし文三の免職によって事態は急変、お勢の心も世知に長けた昇へと傾いてゆく」

 新潮文庫版のあらすじ「秀才で学問はよくできるが上司に尻尾を振れない青年官吏内海文三は下宿先の従妹のお勢のことで頭が一杯。考えすぎて、役所もクビに。そんな文三の元に、同僚だった本田が顔を出す。調子も容量もよい彼は文三に復職の話を持ってくるのだが・・・・・」

 岩波文庫版は登場人物の関係性がどう動いていくかを平気で書いてしまっていて、これを頭に入れておくだけで「浮雲」を読んだ気になれてしまう。こんなあらすじをよしとしていると、「もう「浮雲」なんて近代日本文学の傑作は読んだことがあるはずだから、内容は書いてしまっていいよね。あとは〈文体〉とか細かなところに目をやってください。それができない人は読まなくていいよ」といった出版社(者)のにやけた顔が見えてしまう。こんなの近代日本文学の傲慢だ。もっと読ませる努力をしろ。

 その点新潮文庫版は情報量が控えめだが、鼻につく表現が見られる。「上司に尻尾を触れない」と書いてしまうことで書き手の立ち位置が透けて見えてしまう。あらすじなんて短い文章なんだから、もう少し書き手の存在は透明であってほしい。さらに、特に鼻につくのは「考えすぎて、役所もクビに」という説明である。「考えすぎて」とはなんだ。どこが過剰だったんだ。相手が考えを書いていたんじゃないのか。どうして「考えすぎて」と言えるんだ。「考えすぎて」もうまく言葉がまとまらないから、小説や文学に助けを求めることだってあるだろうに、この書き方はなんだ。鼻につくし、腹が立つ。

 こう考えると、できるだけあらすじは情報量少なめでいてほしいのだが、しかし、あらすじがなければ果たしてその小説を見つけることができたのかとも思う。

 以前にも数回「浮雲」を読んでいるのだが、「浮雲」を読み始めた時の私が「浮雲」に対して純粋であったとは思えない。〈近代日本文学史に残る作品〉だの、〈言文一致体の嚆矢〉だの、〈近代的自我〉だの、なにかしらの情報を元に読み進めていたはずなのだ。事前情報と照らし合わせて、まるで史料であるかのように「浮雲」を読んでいただろう。

 そうだとしたら、岩波文庫版のあらすじは仕様がないところもあるかもしれない。本当はにやけた顔じゃなくて、諦めた顔をしているかもしれない。「どうせ知っている人は知っているんでしょ。じゃあこれくらいのあらすじは書いてしまってもいいよね。できるなら隠しておきたいけど」といった考えなら同情する余地あり。しかし、新潮文庫版のあらすじはだめだ。別に書かなくてもいいことをわざわざ書いている。ふざけやがって。新潮文庫の「あらすじなんかにまとまってたまるか」。

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